2007年09月26日
ガリレオ・ガリレイについて今回は調べてみました。
ガリレオ・ガリレイガリレオ・ガリレイ( Galileo Galilei, ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)はイタリアの物理学者、天文学者、哲学者である。 パドヴァ大学教授。その業績から天文学の父と称され、フランシス・ベーコンと共に科学的手法の開拓者としても知られている。
真空実験で有名なエヴァンジェリスタ・トリチェリはガリレオの晩年の弟子である。
生涯
名前の表記
トスカナ地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある。ヴィンチェンツォ・ガリレイの第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名づけられたのも長男ゆえと考えられる。
日本語ではガリレオ・ガリレイは、ガリレオまたはガリレイと略される。ただし、イタリア語版Wikipediaなどでは略し方はGalileoで統一されている。
家族と生い立ち
ガリレオの父は1520年フィレンツェ生まれの音楽家ヴィンチェンツォ・ガリレイで、彼は呉服商もいとなんでいた。母はペーシャ生まれのジュリア・アマナティ。二人は1563年に結婚し、翌年、イタリアのトスカーナ大公国領ピサ郊外で長男ガリレオが生まれる。この後、ガリレオには弟4人、妹2人が生まれる。1591年に父が死んでからは、家族の扶養や妹の持参金の支払いはガリレオの肩に掛かることになる。
ガリレオは敬虔なカトリック教徒であったが、マリナ・ガンバとは家柄が違いすぎたため正式な結婚をせずに2女1男をもうけている。
ヴィルジニア(1600年生、修道女になってからはマリア・チェレステ) とリヴィア(1601年生、修道女になってからはアルカンジェラ)は幼くしてアルチェトリのSan Matteo修道院に送られた。マリア・チェレステ尼が父ガリレオに送った多くの手紙が残っている。ヴィンツェンツィオ(1606年生)は1619年に父に認知され、 Sestilia Bocchineri と結婚した。
1581年、ガリレオはピサ大学に入学するが、1585年に退学。1582年ごろからトスカナ宮廷付きの数学者オスティリオ・リッチにユークリッドやアルキメデスを学び、1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。
1589年にピサ大学の faculty の地位を得て、数学を教えた。1592年パドヴァ大学で教授の職を得、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えた。この時期、彼は多くの画期的発見や改良を成し遂げている。
ガリレオは、科学分野で実験結果を数学的に分析するという画期的手法で高く評価されている。彼以前にはこのような手法はヨーロッパには無かった。
さらにガリレオは、科学の問題について教会の権威やアリストテレス哲学に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することに寄与し、「科学の父」と呼ばれることになる。
しかしそれゆえに敵を増やし、異端審問で地動説を捨てることを宣誓させられ、軟禁状態で晩年を送ることになる。
略歴
1564年 イタリアのピサ郊外で音楽家で呉服商のヴィンチェンツォ・ガリレイの長男として生まれる(当時、この地はトスカーナ大公国領だった)。
1581年 ピサ大学に入学(医学専攻)。
1585年 ピサ大学退学。家族でフィレンツェに移住。
1586年 最初の論文『小天秤』を発表。
1587年 初めてローマを訪問。当時の碩学クリストファー・クラヴィウスを尋ね、教授職の斡旋を願う。
1589年 ピサ大学数学講師(一説では教授)に就任(3年契約)。
1591年 父ヴィンチェンツォ死去。
1592年 ピサ大学の職が任期切れになる。
(ジョルダーノ・ブルーノ、捕縛される。)
1592年 ヴェネツィア共和国(現在のイタリアの一部)のパドヴァ大学教授(6年契約)となり移住。この頃、落体の研究を行ったとされる。
1597年 ケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると記す。
1599年 パドヴァ大学教授に再任。この頃、マリナ・ガンバと結婚。2女1男をもうける。
(1600年 ジョルダノ・ブルーノ、ローマ教皇庁により火あぶりの刑になる。)
1601年からトスカーナ大公フェルディナンド1世の息子コジモ2世の家庭教師を兼任(大学の休暇時期のみ)。
(1608年 オランダで望遠鏡が発明される。)
1608年 トスカーナ大公フェルディナンド1世死去。ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる。
1609年 オランダの噂を聞き、自分で望遠鏡を製作。天体観測を行う。
1610年 木星の衛星を発見、メディチ家(トスカーナ大公家のこと)の星と名づける。これを『星界の報告』として出版、発表する。この頃から、地動説へ言及することが多くなる。
(ケプラーが『星界の報告者との対話』を発刊、ガリレオを擁護する。)
1610年 ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る。
1611年 リンチェイ・アカデミー入会。
1613年 『太陽黒点論』を刊行。
1613年頃? マリナと別れ、彼女の新しい結婚相手を見つけたとされるが、伝記の記載のみで根拠がないともいわれる。
1613年頃 2人の娘を修道院に入れる。
1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。
1616年 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける。
(コペルニクスの『天体の回転について』、ローマ教皇庁より閲覧一時停止となる。)
1623年 『贋金鑑識官』、ローマ教皇ウルバヌス8世への献辞をつけて刊行される。
1631年 娘たちのいるアルチェトリ(フィレンツェの郊外)の修道院の脇の別荘に住む。
1632年 『天文対話』をフィレンツェで刊行。
1632年 ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。
1633年 第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。
1633年 シエナのピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。
1633年 アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。
1634年 ガリレオを看病していた長女マリア・チェレステ死去(生まれたときの名はヴィルジニア)。
1637年 片目を失明。翌年、両眼を失明。以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる。
1638年 オランダで『新科学対話』を発刊。口頭筆記には弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリが行った。
晩年 振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。
1642年 アルチェトリにて没。
- Permalink
- by
- at 20:03
- Trackbacks (0)